おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
息子ふたりを育てながら、フリーランスで共働きをしています。
何度も言うようですが、お姉ちゃんが大好きです。
4歳上の姉は、ずっとアメリカで暮らしていたのですが、
2年ほど前に日本に帰って来て、
以来たびたび会い、話しています。
彼女は18年前くらいにアメリカで暮らし始め、
ずっとアメリカの大学の、学生の生活サポートのような仕事をしていました。
寮で問題を起こす学生と話し合ったり、
元々何かしら問題を抱える生徒のサポートをしたり。
そしていまも、海外の大学の日本校で、
ありとあらゆる『障がい』を持つ生徒さんのサポートをしています。
私に負けず劣らず読書家、
そして、なんだかよくわからないけどたくさんの学位を持っている、
いつも私の数歩先を歩いている人。
私が本で読んで知った新しい知識を披露すると、
大体先に知っていて、
『それ、今か。そっかそっか。』という顔をします。
・・・アレ?違う違う、お姉ちゃん賛歌ではなくて、
言いたかったことは別のことでした。
私は数年前、何かの本で、
とにかく人に語り掛ける時には、
主語を『私』にすべし、と読んで、実践してきました。
夫の言動に傷ついた時、
「私は傷ついた。私は悲しい。私は怒っている。」
ひたすらそう語りかけてきました。
息子がすべきではないことをしたとき、
「ママはあなたのことが大事。ママはあなたが大好き。
だからこんなことを言う。」
それを付け加えることを忘れないようにしてきました。
そのせいだけではありませんが、
夫は劇的な変化を遂げ、
私なんていなくても子供たちのお世話をひとりでこなせるステキなパパとなり、
夫としてもパートナーとしても、
思いやり合い、切磋琢磨しあう人となりました。
そして姉が教えてくれました。
「私は~」と語り掛けることの意味。
例えば、
「あなたは主体的に子育てしてくれていない!」
と夫に語り掛ける時、何が起きるか。
「主体的ってどういう意味だかわからない。」
「やってるじゃん。」
「これ以上何をして欲しいのかわからない。」
「子育ては母親の役目じゃん。」
「俺は仕事があるし。」
口に出すか出さないか、はその時、その人それぞれですが、
反論、否定、議論、
しこたま出てくるでしょう。
そうやってその「あなたは主体的に育児をしてくれない!」という訴えは、
否定、反論された形で、
相手(夫)の心に残ったり、
もしくは否定済みなので残らなかったりします。
しかし、
「私は、あなたが子育てに参加してくれなくて悲しい。」
「私はあなたと一緒に子育てしたい。」
と言われると、
そこには議論の余地がありません。
そもそも議論がないので、逃げる余地すらありません。
「私は、悲しい。」
と言われて、
「いや、悲しくないだろ。」
とは普通なりません。
「私は、悲しい。」
「・・・そっか」
意外に言えることはなく、
否定も反論もする余地がないのです。
だから「私は悲しい。」は、
そのままの形で相手の心に届き、
心に留まり、ふとした時にきっと、
相手の心の中でコロコロ転がったりして、
心の中で何かを生んだり、変化をさせたり、するんでしょう。
もっと早く、ずっと早く、教えて欲しかった。
学生の時、こんなすれ違いでどれほど傷ついたか。
彼氏とのミスコミュニケーションでどれほどケンカしたか。
人の中でしか生きていけないのに、
そうなるとコミュニケーションが何より大事なのに、
どうして私はこれを、40代で知ったんだろう。
うぬー・・・
子供が駄々をこねた時にも、即効性はないかもしれませんが、
効果があるような気がします。
子供が、フローリングの床に傷がつくようなことをしたときにも、
「傷がつくからダメ」
だけではなく、
「パパとママ、この家が、床が、とても大事なの。
傷がつくと、とても悲しいの。」
と言うと、
少なくとも口答えはしません。
というか、できませんよね。
夫もちゃんとマスターしていて、
「パパはとにかく、嫌なの!」
と言われると、
「ハイ、ごめんなさい。もうしません。」
しか言えません。
話すのってすごくすごーく面倒だし、
「私は~」と語り掛けると反論も反応もない(できない)ので
効果がないように錯覚するんですが、
人間関係において『察する』なんて、
本当は誰にもできないことなんじゃないかと、思っています。
言葉しか持たない私たちはとにかく、
話して、話して、話して話す。
それに尽きるのかな、どう思う?
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最後までお読みいただきありがとうございます。
ひとりでできることには限りがある。