おはようございます。今日も寒いですね。
昨日の話の続きです。
寒い月曜日の朝、「がっこういきたくない」とつぶやく7歳児の話。
きっと相手が7歳だろうが45歳だろうが、
『寄り添う』ということだとまずは共感、なんでしょうかね。
「行きたくなくよね、寒いよね。」
やってみると、
うちの子はこの共感の時点ですぐに、
スン・・・と落ち着くような気がします。
気持ちは落ち着くものの、
でもやっぱり湧くように、
「がっこういきたくないな」
の気持ちが起こっていること、
見ればわかります。
そこも、すごくわかる。
学校(会社)が特に積極的に『嫌い』と思っているわけじゃないし、
行かなきゃいけないことはわかっているし、
1日休んだところでまた明日も行かなきゃいけないわけだし。
7歳なら、それくらいまでわかっているものです。
それでもなんか、
ネバネバしたスライム的なネガティブな感情が、
脇腹から背中あたりにまとわりついている感じ。
ベタベタしてキモチワルイ。
いつもならそれを引きずったまま、学校や会社に行き、
なんとなくごまかすうちに、
楽しみを見つけたり、見つけなかったりして、
そのスライムとは今後もずっと付き合い続けるものです。
でもこのスライムを、
少なくとも体からまとわりついている状態から、
引き剥がすことができる、
かもしれない、
そんな本を読みました。
本自体は子育てとは全く別物の『哲学』の本なのでここでは紹介しませんが、
『問う』ことで感情を見つめることができる。
見つめる時点で感情は体から引き剥がされている。
というのを読みました。
長男が落ち着いたところで、こう聞いてみました。
「学校の、どの辺がいや?」
「んー・・・おべんきょう。つまんない。」
「なるほど。確かにずっとお勉強だもんね。
休み時間も少ないし。
お勉強って、どのへんがつまんない?」
「・・・ずっとすわってる。じっとしてるとこ。」
「そっかそっか。公園で遊んだり、好きだもんね。
じっとしてるのはつまんないよね。」
7歳の集中力はこの辺が限界のようだったので止めました。
じゃあ、『じっとしていること』は必ずしも『つまらない』のか。
テレビを見ているときもじっとしています。
お勉強の面白みがわからないから、つまらないのか。
ちょっと難しいから、つまらないのか。
その答えは長男の中にしかないので私には計り知れませんし、
その答えを出すことが目的でもありません。
「うるせーなー…」
とそのうち言われそうな気もします(苦笑)
ただ、
具体的に問うと、問われた方はそこで初めて、
自分の感情を具体的に考え始めます。
「なんかがっこういきたくない。」
そう感じ、そう言う時点では実は、
何が嫌かなんてよくわかっていないものです。
具体的に問われて、そしてその答えを言葉にして初めて、
人の『思考』が始まります。
背中にくっついたスライムも、
そのままでは見えません。
背中から剥がして、目の前に持ってきて初めて、
ちゃんと見えます。
そして目の前にある時点で、
自分の体とは距離があります。
そして多分これが、
「聞いてもらってなんかラクになった。」
私達が友人に悩みを聞いてもらって、
それだけでなんかちょっとだけラクになったと感じることの
カラクリなんじゃないかと、思いました。
聞いてもらったからと言って何も解決はしていないし、
なにか決心をしたわけじゃなくても、
聞いてもらうだけでラクになることを
大人になるにつれて体感します。
そして時折、
聞いてもらう中で結論が出る瞬間も訪れます。
問い、考え、語る。
それが『思考』の一連の手順であると読んで、なるほどなと、
7歳児のスライムも、引き剥がせないかと試してみました。
具体的に問うただけで、感情と距離を取り見つめることが出来たか、
それによってなにか変化が生じたか。
そんな微妙なことは7歳児には言語化できませんが、
その次の日から、
「あーあ、がっこういきたくないな!」
大きな声で一度そう言い、
パジャマを振り回して遊び、
着替えながら遊ぶうちに顔は笑顔になり、
重いランドセルを
「んう゛ぅん!」
と勢いをつけて背負い、
潔く玄関を開けて行っているようです。
『これさえやれば一発解決!』
人生や世の中にそんなものが滅多に無いからこそ、
私達はそれを求めてやまないんでしょうかね。
うん、実に曖昧な話を書きました。
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いつも応援いただき、本当にありがとうございます。
本当は不安でたまりません。