おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
Twitterやってます?
何度かTwitterをお勧めする記事を書きました。
それをきっかけに始めたとお声がけいただくことも何度かあり、
嬉しい限りです。
私自身も、情報収集、共有と、
楽しいツイッターライフを送っています。
『人類×SNS』の壮大な実験に思えます。
楽しさと背中合わせにある、
ツイッター上で見られる、人の負の面。
それを可視化するツールである、SNS。
それらは炎上していたり、いなかったりしますが、
見るたびに思います。
40歳超えてTwitterを始めていてよかった。
私が10代でTwitterをやっていたら、
やらかしていた自信があります。
つい最近のタイムライン上をにぎわせた、
『ポテサラじじい』
お惣菜のポテトサラダを買おうとしているママに、
「母親ならポテトサラダくらい作れよ。」
そう言ったじいさんの話から、
ポテトサラダを作るのがいかに大変か、
母親だからってなんでもかんでも手作りさせんなとか、
我が家のポテサラとか、
美味しいポテサラのレシピとか、
いろいろ発展していました。
私はもちろんポテサラどころか料理すらあまりしないのですが、
こんなTweetも。
『働いているとして、
時給〇円なら総菜買ったほうが効率的だし、
時給〇円以下なら手作りするべし。』
私も、若い時はこういう風に『浅い理解』で満足していたなと、
懐かしくなりました。
ネガティブ・ケイパビリティとは、
拙速な理解ではなく、
謎を謎として興味を抱いたまま、
宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。
その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、
耐えていく持続力を生み出すのです。
もうこの説明も、本自体も、
それ自身が『ネガティブケイパビリティ』そのものという感じなんですが、
ポテトサラダを作れと言うじいさんと、
作れと言われる母親。
何かしらの憂さを抱えるじいさんと、
憂さ晴らしの道具として選ばれてしまった母親。
いずれも社会的な背景を持っています。
人は社会的な生き物です。
ポテトサラダが食べない時、
作りたい時と作りたくない時、
母親としての社会的『圧』。
母親自身も、愛情を示す最適な術を探していたり、
この『ポテサラじじい』の件にも、
ちょっと考えただけでも無数の事情が絡まっているわけです。
その上で、お惣菜を買って、
家族で笑って食べたり、
またケンカになったり、
そうやって生活は、日々は続いていきます。
何ってね、
息子たちには、
ポテサラ作る作らないと時給で考えたり、
なんでも簡単に分かったような気になって欲しくないなと。
ネガティブケイパビリティって、
実はすごい力なんじゃないかなって。
この本自体が、宙ぶらりんの曖昧なままで収めるので、
なかなか説明がしにくいのですが、
人の脳はどうしたって、『理解』しようともがくんです。
無秩序の数字の羅列が並んでいると落ち着きませんが、
すべて3の倍数だとわかると人は安心します。
でも世の中、そんな風にパッとわかることばかりではないし、
むしろそういうことのほうが多いんです。
答えだけを求めるのではなく、
複雑なままに持ち続けて、
より深い理解を得ることを、
習得して欲しいと思います。
(むしろ若い時の自分に言いたい。)
そのためには何かというと、
自然体験もひとつだと書かれています。
神々しい日の出を山頂から見て、
「わかった。」
と言う人はいません。
自然や音楽、美術などは、
「わかる」ものではなく
ただ身を浸すもの。
もしかしたらその先に、何か発見があるのかもしれませんが、
おいそれと見つかるものではない。
わからないまま持ち続けて、
何年も経った後に何か見つかったり、見つからなかったり。
あー・・・やっぱり説明が難しい。
大体毎日、1500字くらいを目安にしているんですが、
ちょうどこのくらいで1500字。
1500字ではやっぱり無理ですね。
簡単な答えで満足して欲しくないのは、
『答え』は『好奇心』を殺すからです。
『わかった』と思えばそこで、『学び』をやめてしまうからです。
『わからないまま』なら、好奇心を持ち続けられます。
幸福は、達成への途上で生じる。
ずっと『途上』でいられるのが、
いちばん幸福だということです。
あー、ホラ、やっぱり長くなっちゃった。
さて、ポテサラ買ってビールでも飲むか。
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最後までお読みいただきありがとうございます。
ひとりでできることには限りがある。