おはようございます。みゆきです。
9歳と6歳の息子ふたりを育てています。
会社員時代の話。
保育園児ふたりいて、営業職だった数年前。
毎日通勤が当たり前だった数年前。
私の人生でいちばん、『忙しない』時期でした。
タスクが多すぎて、いつもやるべきことが溜まっていて、
いつも分刻み。
そんな日々の中。
ふと1時間だけ時間が空くことがありました。
客先でのミーティングのスケジュール上、
直行直帰になった日とか。
そんな邪魔されない1時間こそ、
こなすべきタスクを一気に片付けたり、
もしくはむしろ普段できない読書の時間にあてたり。
『有意義』に使うべきなのに、
ソファで
ボー・・・・
っとしてたら1時間経っていたり、
ちょっとTwitterと思ってスマホを開いて
気づいたら1時間終わっていたり。
その『無為』な1時間を過ごした後も、
特にスッキリした感もなく、
せっかくの時間、無駄にしちゃったな~
と後悔したり。
でもまた同じような時間が来ても、
また同じように無為に過ごしてしまう不思議。
この同じ現象を現在の母に見たことと、
その理由について。
父の介護に追われる母。
実際のタスクはそこまで多くないかもしれないけど、
なんせ本人も高齢。
その上、それまでの長きにわたり、
『決断』や『判断』のことごとくを父に任せっきりだった母が、
認知症が進んだ父の代わりに全部判断する負担。
その時点でもういっぱいいっぱいなんでしょう。
元来、几帳面でキッチリした性格の母。
両親の家は、きれいに掃除され、整理整頓されています。
しかしいかんせん、なんというか、
全体的にひどくくすんでいて、
ひどく荒んで見えます。
庭に生えていた大きな桜の木。
春には見事な花を見せてくれた桜の木。
とはいえ毛虫とかも大変だったであろう桜の木。
その隣にあった、イチジクの木。
たまにとれるイチジクが意外に美味しかった、イチジクの木。
カミキリムシがたくさんいて、次男大喜びのイチジクの木。
2本とも母は、切り倒させました。
認知症が進んだ父は、1日中テレビを点けっぱなしにし、
座って何もしゃべらず、
母は、擦り切れ、つぎはぎし、見たこともないほどにボロボロのカーテンを
まだ使えるときれいに畳み、
どこかのお弁当についていた割りばしは、
繰り返し洗って使い過ぎてもはや黒に近い色。
なんというか、
生活の中の『文化』とか『彩』とか、
そういうものが消えたんです。
母の習い事の話も聞かなくなり、
取れかけた鍋の柄を、
「昔はお父さんが直してくれた」
と嘆きながら使い続ける母。
「空いた時間は何してるの?」
と聞くと、
ボー・・・・っとしてたら終わっちゃうと言う母。
全ては母の、余裕のなさ。
多分、心は常に空白の部分を必要としていると思うんです。
実際私が、
子供だけで寝るようになり寝かしつけの儀式から解放され、
自宅勤務になり通勤時間から解放され、
いくらかの『浮いた時間』を常備できるようになってからしばらく、
ボー・・・っとしたり
Twitterして終わったりと、
時間をうまく使えませんでした。
しかしそんな無為な時間をしばらく過ごした後に
やってきました。
『そうだ、久しぶりに映画でも見よう。』
『ずっと読みたいと思ってたあの本を読もう。』
そこを皮切りにやっと、
海外ドラマを『常用』できるようになり、
本来好きだったタイプの本をまた読み始め、
友人と会う時間を作り、
キャンプ場サーチにひと晩使ったりできるようになりました。
つまりね、
『文化』の類を楽しめなくなるということはまず、
心に余裕がないということの印であること。
そして、
その余裕のなさは『借金』に似ていて、
返済し終わってゼロに戻るまで、
少し時間がかかるということ。
桜の木を切った余裕のない母は、
一度ショートステイを利用して2日間気兼ねなくひとりで過ごしたとしても、
それだけでまた桜を愛でる気にはならないということ。
ショートステイを何度も何度も続け、
ボー・・・
っとする時間を何度も何度も重ね、
借金を返して初めて、
『そう言えば私は芙蓉の花が好きだった。』
と思い出して、
どこで見られるかなと考えを巡らせるようになる。
なんて話も、母にしてみたんですが、
これだけ長い説明になった時点でもう母は拒否反応。
「言葉じゃないのよっっ」
ということでした。
でもさ、お母さん。
借金を返し終わったその時間に花が咲いて、
その花をお父さんと楽しめればそのほうが幸福だと
私は思うんだけどな。
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お忙しいところすみません。。
いつも応援ありがとうございます。
自分以上に頼りになる人、いますか?