おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
8歳と5歳の息子ふたりを育てています。
まだたまに思い出して、恥ずかしくて堪らなくなることがあるんです。
長男を妊娠中。
つまり私にとって初めての妊娠中。
例えば電車の中など、
見ず知らずの人には自分が妊娠していることを隠したかったんですよね、なぜか。
でもだんだんとお腹は大きくなってきて、
やっぱり車内で気づく人も出てきて。
そうすると席を譲られるんですよ。
あるとき誰かに席を譲られて、
たまたま「大丈夫です」と断ったんですよね。
もうすぐ降りるし、体調もすこぶる良かったし(つわりがないタイプです)。
そしたら回りの別の女性も
「座りなさい、座りなさい」
となったんです。
そして私は、それでも断ったんです。
すごく嫌な顔をして。
今思うと、すぐ降りるとしても座っとけばよかったな~ってね、
思い出すんです。
その時の自分の心理を後から考えて、
ものすごく恥ずかしいというか、
若かったというか(実際は34歳だったのでそんなに若くない!)。
自分が弱者だと認めることが嫌だったんです。
電車で席を譲られるような弱者だって。
それは当時の私にとってはもはや『屈辱』ですらあったんです。
逃げ道のない、弱い立場なのだということを、認めたくなかったんです。
それまでの私は、学校の成績も良くて、
留学してバイリンガルになって、
外資系の会社に入って、
社会の平均年収以上のお給料をもらって、
今思うと『名誉男性』そのものだったんですよね。
(『名誉市民』と同じで、『男性』じゃないけど
『男性』として扱われる『非男性』)
自分は自分で努力して、いまの地位を築いたのだと思っていたし、
だからその裏返しで、
生まれつきの『障がい』を除いて、
いま弱い地位にいる人は努力が足りないのだと思っていました。
自己責任。
合理的で、筋の通った理論だと思っていました。心の底から。
だから妊娠して、『社会的弱者』になった自分を認めるのが
すごく嫌だったんですよね。
自分が弱いなんて、認められなかったんです。
私なら、たとえ妊婦になったって強いままだと、
そう思っていました。
結果、出産して産後うつになりかけ、
保活でガツン!とやられ、
大ショックの中で受け入れました。
私は社会的弱者だって。
というかそもそも、女に生まれた時点で決まってたんだって、
やっとやっと認められたんです。
それまで『私は強い』と思って生きてきた私が、
それまでの強さは私の努力だけではなく、
あくまで『強運』と『恵まれた環境』の上に成り立つ努力であったのだと、
やっとわかったんですよね。
それを理解したとき私は36歳でした。
いま貧困に苦しむ人がなぜそんな状況に身を置くことになったのか、
それはその人の能力如何ではどうしようもない要素があることや、
その状況そのものがその人をそこに押しとどめていること、
努力できること自体が恵まれた環境に生まれた幸運であること、
それを知らなかった私と、
頭では知っている私といて、
そりゃ弱者よりは強者でいたいものだけど、
でもそれでも、昔の『強者ぶっていた私』には戻りたくないというのが、
今の気持ちです。
でもさ、でもさ、
私ってば、36歳になる前から、
ものすごくたくさんの本を読む人だったんですよ。
子供が生まれる前は月20冊読んでいたんです。
そんなに、そんなにも本を読んでいたのに、
そんな根本的なことをわからずにずっと暮らしてきたんです。
自分が逃げ道のない弱者になって初めて、
今まで見えなかったものの存在にやっと気づいたんです。
気づいたからと言って見えるわけではないけど、
それがあるのだということはわかったんです。
幸運なことにいまは貧困に苦しんでいない私には、
貧困で苦しむ人の気持ちを理解することはできないけど、
その苦しみがあるのだということ、
そして世の中には計り知れない苦しみがあるのだということはわかったんですよね。
そして思う、息子たちのこと。
どうしたって日本にいたら強者に育つであろう彼ら。
東京に生まれ、経済的に困ることもなく健康にも恵まれ、
多少学歴に恵まれなくたって、
多少腕力が弱くたって、
多少年収が低くなろうとも、
逃げ道がなくなることはないであろう、男性になると思います。
弱い立場の人に、
「それが生まれつきでないならそれはあなたの能力や努力が原因。」
そう思ってしまう成人男性にならないかと
母は心配しているのです。
でもそれは、どうしたら教えられるものなのか。
それがわからなくて途方に暮れてもいるのです。
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お忙しいところすみません。。
いつも応援ありがとうございます。
自分以上に頼りになる人、いますか?