おはようございます。
長男が小学校へエッチラオッチラ行き始めて数ケ月。
小学生の重い荷物を背負って、
毎日「いってきまーす。」とひとり玄関を出ていくようになりました。
送りがなくなるって、
心配も増えるけどラクにはなります。
(我が家はたまたま小学校がすぐ近くです。
学校に着くとメールが来るやつが学校から支給されています。)
小学生の日傘使用について。
だって暑いもん。
大人だって熱中症になるもの。
子供は心配。
もう少し距離があったら日傘持たせることも考えたと思います。
先生からダメだと言われたとか、
手がふさがるから危ないからだとか、
そういう話を聞きました。
ちなみに長男の小学校、
入学前に靴下は無地の白と言われました。
でも、手持ちの白っぽい靴下や、
「紺ならいいんじゃない?」
と適当に履かせていたら、
同級生のママ友に驚かれました。
賛否両論あるかもしれませんが、
我が家は割といつもこういう感じです。
「ダメって言われたら考えよう。」
いやもちろん、どう考えても理由があってダメでしょう、
とわかるようなことは言われる前に守ります。
『学童のお弁当に、本人が開けられないようなものは持たせないでください。』
と言われていたら、
『そりゃそうだね。いちいち開けてくーだーさーい。
ってされたら仕事できないよね。』
と理由がすぐにわかるので従います。
でもさ、
靴下の色とか、
理由なんかないじゃないですか。
納得できる理由があればもちろん、
「そんなこと思い至らず失礼しました。」
と言って従います。
でもさ、多分ないじゃん、靴下は。
実際同じマンションの上級生をたまたま見かけたら、
青とか黒とか紺とかだったし、
いまだに先生からも何も言われません。
でも、事前の説明では言われるんです。
変なのー・・・
って話を、夫と子供の前でしています。
理由はわからないけどルールに従う。って、
社会に出て必要ですか?
それが必要なのは軍隊だと思うんですが、
社会にもそういう状況ってありますかね。
学校という教育専門機関に、
「なんで?」を問わせないルールがあること、
やっぱり私は違うと思います。
以前も書きましたが、
『学び』って必ず、能動的な疑問や探求心、好奇心が不可欠だと思うんです。
そしてそんな『学びの場』である学校や保育園でこそ、
形骸化している形式にとらわれていると感じることが多いです。
(幼稚園のことは私は知りませんので…)
保育園でね、いまはコロナのせいでやりませんが、
毎朝夕、先生とのご挨拶の仕方が形式化されています。
「せんせ、おはようございます。
〇〇さん、おはようございます。」
ほぼアメリカ人の姉がこれを見た時、
目を剥いて驚いていました。
「軍隊みたい…」って。
挨拶は大切なコミュニケーションです。
人間関係を円滑にしますし、
子供に挨拶を習慣づけることは必要だと思います。
でも、形式化することの弊害のほうが私は大きいと思います。
挨拶の本来の目的は、コミュニケーションです。
相手の目を見て、
『今日もよろしく。』
『また明日ね。』
とお互いの存在を確認、尊重し合う行為です。
そこに形式を持ち込めば、運用は簡単になるでしょうが、
言われた通り言いさえすればいい、
になったりしないでしょうか。
いやいや形式化したほうがいいのだ。
という理論があるなら、それに納得できるかもしれません。
いちいち理由なんて考えていたらそっちのほうが面倒、
ということもあると思います。
いずれにしろ、
理由はないけど、
理由はわからないけどとにかくやる、
っていうことが私はなんか違うかな~と、思う訳です。
冒頭の小学校の靴下。
『不良』な親である私と夫は、
長男の前で話しました。
「いいじゃん、靴下なんて何色でもいいんだよ。
赤履いてみなよ。なんか言われるかな?」
「いやでも、赤はさすがにやりすぎじゃないか?
面倒なことになっても面倒だぞ?」
「確かにそうだな、じゃあとりあえず白っぽいのと紺で行くか。」
「先生に何か言われたら、ママとパパがいいって言ったって言っていいからね?
そして、ママとパパに教えてね?」
子供たちに「なんで?」と問われた時が、
いちばんのチャンスじゃないの?
違うの?
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最後までお読みいただきありがとうございます。
ひとりでできることには限りがある。