おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
ここ最近、子供への性犯罪や、子供を性的対象として見ることに対するツイートが、
タイムラインでよく見られます。
Twitterの流れの中で、
それにまつわるいろんなツイートを見て、
男児も含めて、子供を持つ親として
胸がえぐられる思いと言うか、
息が苦しくなるような感覚さえ感じます。
『もし我が子が・・・』
なんて想像してしまったら、ギュッと目をつぶって、
ドキドキが去るのを待ちます。
女児、男児、とにかく子供を性的に見ること、
小児型ラブドール(という名前が巧妙)があるから犯罪が起きないのだという論、
いろいろな人がそれぞれの視点で言葉を発していますが、
小児性愛がLGBTQ+と同様であるわけがないし、
二次元→人形へエスカレートする人がいるわけで、
小児型のドールも法律で完全に規制すべきだと思うし、
もうね、
子供を性的対象として見て消費するという時点で、
圧倒的な嫌悪感で震えます。
でもどなたかが言っていたんですが、
ペドフィリアに対して積極的に反対するのは女親ばかり。
少なくとも私が見る限りは。
男性もいますが少数、もしくは、聞かれたらそりゃダメだよね、
という空気。
これの理由。
痛みは、いやがおうにも人を当事者にする。
また例によって、どの本で読んだか忘れましたが、
これに尽きるんだろうなって。
性的に消費されること
そしてそれを『大したことない』と言われること
実際に体感したことのない女性のほうが少ないはずです。
その『痛み』が、私たちを当事者にしているんです。
当事者として反対なら、積極的になります。
性的に消費されること、
それを比喩や例えで、
夫をはじめ男性に説明したいといつも思うんですが、
未だに思いつきません。
『魂の殺人』なんてよく言いますし、
正しいとは思いますが、
いまいち男性には伝わっていない感がしています。
やっぱり結局は男性も、
自分より強い男性から性的に消費されることを
(疑似)体験することでしか、
男性を当事者にすることはできないのかもしれません。
性犯罪の件に限らず、すべてにおいてそうですよね。
人を当事者にするものは痛みだけではありませんが、
痛みは確かに人を強引に当事者にします。
でも、題材は何であれ一度この『痛み→当事者』を体験したら、
他の『痛み』を感じている人のこと、
当事者でなくても頭で理解することができるのは、
唯一人間だけだと思います。
次男が保育園のお友達と一緒に拾った、
小さな小さな小石がありました。
「ひろくんとひろったんだよ。
イモムシのたまごだよ。」
大切にしていた小石、
いつもダメだと言われているのに口に入れてしまいました。
誤飲したら大変と、私も夫もいつも口を酸っぱくさせて言っているのに。
「口に入れたら捨てる。」
夫が一発アウトでその小石を捨てました。
泣き叫ぶ次男。
夫のこの行動は、普段の次男の行動あってのことなので、
ここでは特に糾弾するつもりはないのですが、
そのあとの長男の反応。
「ただの石じゃん。」
「石だろうがなんだろうが、大切なものは大切なの。
その人が大切だと言ったら、それは大切なの。
他の人がその大切さを決めることはできないの。」
そう言って、
次男と一緒にゴミ箱を探して、
小さな小さな小石を見つけて、
もう二度と口に入れないと約束して、
次男は笑ってくれました。
小石の大切さを、心で共感することはできません。
でも、頭で理解して、それを尊重する行動を示すことはできます。
誰かが、しかも多くの人が、
性被害にあったことで人生が狂ったと苦しんでいる時、
せめて頭で理解して、
できれば積極的に「NO」と
言ってくれる男性が増えることを願います。
悲しいかな、悔しいかな、
今の社会は男性の声のほうが大きく、力があります。
当事者が男性である問題は、たいてい早く解決策がとられます。
悲しいかな、悔しいかな。
せめて子供たちは、一緒に守ってください。
子供が被害者になるなんて、もう耐えられません。
↓をクリックいただけると、ブログランキングのポイントが入ります。
お忙しいところすみません。。
いつも応援ありがとうございます。
自分以上に頼りになる人、いますか?