おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
どれだけ煙たがられても、この先何度「うるせー、ババァ」と言われても、
この当たり前のことだけは、息子たちに刷り込んでしまいたいと思っています。
『当たり前のこと』とされているのに、みんながみんな出来ているわけではない、
「ありがとう」と「ごめんなさい」の条件反射。
伝説の経営者、カリスマと呼ばれる人たちの本を読むと、結構な頻度で、当たり前のことが書かれています。
『周囲への感謝の気持ちを忘れず、それをきちんと伝えること』
でも当たり前のことを、できていない人が多いからこそ、彼らがカリスマになり得た、のかもしれません。
別にカリスマにならなくてもいいんですが、
周りを見渡すと、街でも、会社でも、「ありがとう」と「ごめんなさい」を出し惜しみする人によく出くわします。
男女問わず、います。
それってなぜなんだろう、ってずっと考えていたんです。
「ありがとう」と「ごめんなさい」って、湯水のごとく垂れ流したほうが、生きやすいじゃないですか。
大したことないようで、その効果は絶大だと私は信じています。
だって自分が「ありがとう」「ごめんなさい」と言われると、その人のことを好きになるし、よくしてあげたい、って思うから。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を言わずに済まそうとする人、出し惜しみする人はきっと、
それを言うことで見下されたり、軽く見られたり、相手の気を晴らすことが『シャク』だという気持ちがあるのかな、と思ったんですよね。
じゃあそれってどういうことなのかな、と思うと・・・
自分の大きさや価値が、人によって決められたり、人によって左右されたりすると、
思っているからなんじゃないかな、と考えたわけです。
「ありがとう」や「ごめんなさい」は、
「ありがたいと思っている」
や
「申し訳ないと思っている」
という言葉とは違い、
『ありがたみボール』を、自分の手から、相手の手に「はいっ」と渡す行為です。
「申し訳ないと思っている」は、
『申し訳ないボール』を、自分の手の中で持っているだけですが、
「ごめんなさい」はそのボールを相手の手に渡す行為です。
「ありがとう」や「ごめんなさい」は、バーチャルであっても相手ありきの言葉です。
でもそんな『気持ちボール』を相手の手に託してしまったら、
自分の価値を相手に託してしまうようで、不安になってしまうんじゃないかって。
気持ちは無限に湧きだすもので、
その気持ちを湧きださせる自分の『価値』は、
自分にしか決められないもので、
みんながみんな、いまのまま、あるがままで大丈夫だということを、
気づいていないのかな、なんて、(←自分も含めてね)
すごく偉そうですが、思うんですよね。
息子たちが、自分の価値に気づき、実感するのがいつかはわかりませんが、
本来は別の話であるはずの「ありがとう」と「ごめんなさい」は、
条件反射のように口からこぼれてしまう言葉として、
刷り込んでしまいたいな、と思います。
彼らの自己肯定感を育む、という壮大なテーマは、
ひとつの記事なんかでは語れないのでいまは触れません。
自分がその時どれだけ傷ついていても、
ほかに納得のいかないことがあったとしても、
相手のしてくれたことや、自分のしてしまったことは切り離して、
ひとまずは「ありがとう」や「ごめんなさい」を言わないことにはなんかムズムズしてしまう、
そんな人はきっと、いろいろあっても前を向いて生きていける人、
なんかじゃないかな、と思いました。
そんなこと言われると私だってまだまだで、
「ここで『ごめんなさい』を言っておいたほうが、きっとみんなにとっていいんじゃないか・・・
でもシャク・・・」
「これに対しては『ありがとう』を言うべきだろうけど、
ほかのことでは私すっごいやってあげてるんですけど(怒)」
と葛藤することもしばしばです。
それで言うと子供のほうがよほど素直で、シンプルなのかな。
子育ての話をしようと思ったら、ブーメランのように自分に返ってきた、
っていう話でしたwww
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最後までお読みいただきありがとうございます。
ひとりでできることには限りがある。