おはようございます。ワーキングマザー・サバイバルのみゆきです。
いつだって生きていればいろいろあるんですが、
私ここ最近、とても幸せです。
私を大事に思ってくれる夫や友人、親や姉、大切な息子たちがいて、
好きな仕事があって、いい出会いに恵まれて、とても幸せだと感じています。
幸せは、得るものでも、与えるものでもなく、
実感するものである。
これは、仏教の本で読んだものですが、とてもしっくり来ます。
まだ億万長者ではないし、絶世の美女でもないし、私のことを嫌いな人もたくさんいるだろうし、
回りの人にもたくさん迷惑をかけてしまいますが、
バカみたいに幸せです。
でもそう思えるのは、いまの『生き苦しい』日本で、
空気を読んでも従わないという選択をすると、やっと吹っ切れたから、
というのもあるんじゃないかなと、この本を読んで改めて思いました。
前職は、外資系の企業でした。
全社会議やら、研修やら、社員の集まる場では、最後に必ず、
「質問のある人は?」
となります。
そうすると大抵、外国人の社員、もしくは帰国子女の社員などが質問をしたり、
ただ感想を言ったりします。
日本人の社員は、やっぱり基本的に私も含めて、質問はしません。
↑の本で解説されているんですが、
欧米で育つ人は小学校1年生から、
「あなたはかけがえのないあなたですから、あなただけの感想や質問が必ずあるはずです。それはなんですか?」
と聞かれ続けるそうです。
それはつまり、何かしら感想や質問をしないといけないという圧力。
逆に日本では、質問をするからには『ちゃんとした質問』をして、聞いている人たちをある程度感心させないといけない、
という圧力があります。
だから日本では、質問を当てられないように下を向きます。
アメリカに留学していた時も、いつも思っていたんです。
『なんだこの圧力は?』
「どう思う?」
「何がしたい?」
と聞かれて答える時、とにかくしっかりと主張しないといけないという圧力を、終始感じていました。
その代わり、答えさえすれば、答えがどんなものであっても、笑ったり、茶化されたり、無視されたりはしませんでした。
「いまは寝ていたい。」
と主張することは許されても、
「特になんでもいい。」
というのはあまり許されない空気でした。
それがおそらく、
『あなたはかけがえにのないあなたであって、あなたならではの考えがあるはず。』
という認識の現れでしょう。
いや、わかんないっすよ。
なんでもかんでも欧米が良いとは、ぜんっぜん思いません。
日本ほど清潔で便利な国はないと思いますし、母国サイコー!って感じです。
でもやっぱり、曰く『中途半端に壊れている世間』が残っている状態で、
圧力に従って空気を読み続けると、
なかなかに生き苦しく、そして、
幸せを実感するのが、私には難しかったです。
『あなたはかけがえのないあなたであるから、必ず感想や質問があるはず。』
と親が問い続けることは苦しいところもあると思いますが、
『あなたはかけがえのないあなただから、人と違ってもいいのだ。
誰が何と言おうと、いいのだ。』
というメッセージは、送り続けてもいいかな、と思いました。
そして、空気を読んでも従わない親の姿もきっと見るでしょう。
(夫も割とそっち系です。)
それを見習うのか、反面教師にするのか、それは彼らの加減で、彼らが将来決めてくれればいいかな、と。
↑の本でも繰り返し書かれていますが、
『世間』で生きることが当然の日本では、
人に迷惑をかけないように、
と育てられます。
私もそうでした。
母は特に、いつもいつも呪文のように、
人に迷惑をかけてはいけない、と言いました。
しかし以前にも書きましたが、
人に迷惑をかけないように教えるよりも、
人を幸せにすること、人の役に立つことを教えたほうが、
本人も、まわりの人も、きっとより幸福なんじゃなかろうか、
とまた思いました。
だって一生懸命生きながら人に迷惑をかけないって、すごく難しいですからね。
息子たちには幸せになって欲しい。
彼らの幸せって、どんな感じだろう、と考えてみたんです。
幸せは人それぞれだからこそ、
社会的規範や圧力に左右されるのではなく、
彼らが好きなこと、やりたいこと、それを追ってくれたら、
やっぱりそれが楽しいんじゃないかな、と漠然と。
そしてその中での拠り所として、
『自分とまわりの人を幸せにすること』に価値を置けたら、
理不尽な世の中で、
「幸せだな」
と実感できる人に、なれるんじゃないかな。
なってくれたらいいな、という気持ちです。
うまく整理できませんでしたが、ツラツラと書きました。
あなたの思う、あなたのお子さんの『幸せ像』って、どんな感じですか?
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最後までお読みいただきありがとうございます。
ひとりでできることには限りがある。